今日の名言
「先生の詩のように軽くて清潔な詩を、いま、僕たちが
一ばん読みたいんです。僕にはよくわかりませんけど、
たとえば、モオツァルトの音楽みたいに、軽快で、そう
して気高く澄んでいる芸術を僕たちは、いま、求めてい
るんです。へんに大袈裟な身振りのものや、深刻めかし
たものは、もう古くて、わかり切っているのです。焼跡
の隅のわずかな青草でも美しく歌ってくれる詩人がいな
いものでしょうか。現実から逃げようとしているのでは
ありません。苦しさは、もうわかり切っているのです。
僕たちはもう、なんでも平気でやるつもりです。逃げや
しません。命をおあずけ申しているのです。身軽なもの
です。そんな僕たちの気持にぴったり逢うような、素早
く走る清流のタッチを持った芸術だけが、いま、ほんも
ののような気がするのです。いのちも要らず、名も要ら
ずというやつです。そうでなければ、この難局を乗り切
る事が絶対に出来ないと思います。空飛ぶ鳥を見よ、で
す。主義なんて問題じゃないんです。そんなものでごま
かそうたって、駄目です。タッチだけで、そのひとの純
粋度がわかります。問題は、タッチです。音律です。
それが気高く澄んでいないのは、みんな、にせものなん
です。」(「パンドラの匣」新潮文庫より)
しばしば太宰治は、芸術論を語っていますが、この名言も
まさに太宰治らしい考えが表れているのではないでしょう
か。
モオツァルトのような軽快で気高く澄んでいる芸術が求め
られる、本物の芸術であるというのは、終戦直後の焼け跡
が広がった混乱期にだけに当てはまるのではなく、普遍的
な芸術論ではないでしょうか。
なぜなら、大袈裟なもの、深刻めかしたものというのは、
何か誤魔化しがあるからこそ、大袈裟にし、深刻めかすの
ではないでしょうか。誤魔化しがあるのなら、それは本物
ではありません。
一切誤魔化しのない、素早く走る清流にようなタッチで、
純粋な、気高く澄んでいるものは、シンプルで余計な飾り
つけも何もないからこそ、普遍的に本物の芸術なのではな
いでしょうか。
パンドラの匣改版 [ 太宰治 ]