生きる意味がわからない

人間がだめになったんですよ。張り合いが無
くなったんですよ。大理想も大思潮も、タカが知
れてる。そんな時代になったんですよ。僕は、
いまでは、エゴイストです。いつのまにやら、
そうなって来ました。
(「春の枯葉」より「グッド・バイ改版」新潮文庫より)

数少ない太宰治の戯曲の1つである「春の枯葉」
の1節です。

舞台は昭和21年4月。津軽半島の僻村が舞台で、
主人公は国民学校教師野中弥一。ほか弥一の
妻節子、節子の生母しづ、野中家に居候する弥
一と同じ国民学校教師の奥田と妹の菊代です。

今日の名言は、ストーリー後半に奥田が節子に
話すセリフです。戦前世代の人々は、特に僻村に
暮らす人々は、中々古い考え方や習慣から抜
け出せないでいるのに対し、都会に暮らしていた
若い人たちは、戦後の新しい考え方に馴染んで
いるのです。

しかし、簡単に新しい考え方に馴染むというのは、
それだけ物事を深く考えない、即ち人間がだめに
なったということかもしれません。なぜなら戦前教
育で教えられたことが、 当然と思っていたことが、
180度真逆の考え方に変わったことを、そんなに
簡単に受け入れられるはずはないはずだからです。

しかし、戦後に馴染んでいるように見せかけている
だけで、その実馴染めないことを必死に隠そうとし
ている、或いはどうでもいいという虚無的な思考で、
馴染んでいるフリをしているだけとも言えるのかも
しれません。そうだとすると、エゴイストに徹する
しかなくなるでしょうね。

いずれにしろ、何をよすがにして、何を張り合いと
して生きればいいのか、本当に分からくなるのだと
思います。

いずれにしても、戦争という行為がいかに罪深い
ものか、人々をどれ程深い苦しみに陥れたかとい
うことがひしひしと感じられる名言です。


グッド・バイ改版 [ 太宰治 ]

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